'08.Jun.3.


生と死。河瀬監督はいつも身近にある難しいテ−マを選ぶ。いままでの映画ももちろん、この部分が必ず根底にある。やっと販売されたDVDを手に入れ、ひとり部屋の照明を落とし見た。わざわざそうして見ている自分がそこにいる。変人かも知れない。支える人、支えられる人。しかし本当は、支えることにより支えられているという現実。人という字がそうであるように・・・重たい映画だ。こういう作品はきっと、絶対受けつけない人がいるだろう。自分は「萌の朱雀」以来監督のファン。なので勝手だが映画に浸ってしまう。「萌の朱雀」から10年を経てこの映画が出来た。監督の日常から感じとる、一貫したテ−マがそこにある。わたしが感じるある感覚は、映画と言うよりなんか別の表現をこの作品に感じる。説明的な表現をできる限り省き、見る人に目で、耳で、体で、五感すべてを使い感じてほしいと・・・。あとひとつ、いつも感じることがある、監督は人がとても好きなようだ。そして大切にしている。いつもエキストラに素人さんを使う。等身大の生活を意識して、日常のなかにこぼれている喜びや悲しみと言ったものを、自然に伝わるよう描いている。わたしが河瀬作品に引かれるのは自分自身、人が好きなのと、いつも等身大でありたいからかも知れない。出演者が実名で役を演じさせているのは、その役を無理やり演じないようにとの配慮なのか、ちょっと気になった。
映画のテ−マを象徴するセリフがある。ホ−ムの部屋でシゲさんが呟く
「わたしは生きてますか?」シンプルで深い言葉だ。一番印象に残ったシ−ンは、森の中深く彷徨い、雨にうたれ、それでも休まず川の中に入ろうとするシゲサンに
「いったらあかん ! いかんといて !」と慟哭する真千子。これは作りもではないこころの叫びと、わたしの中に強く残った。また森の表情が刻々と変わり、時に激しく、そして次の瞬間やさしく。その風景の深い緑が、画面を包み込んでいたのと、流れていた静かなピアノの旋律が物語の印象をさらに深めていた。
「萌の朱雀」から10年。あの時の高校生は、しっかり10年の時を大切に生きてきた姿を見せている。特典映像を最後に見て、みんなで一心同体の映画づくりをしている監督が羨ましく思えた。でもそれはきっと、監督自身が等身大の自分をそのまま見せているからだろう。
※殯(もがり)
敬う人の死を惜しみ 忍ぶ時間のこと また、その場所の意。
語源に「喪あがり」喪があける意、か。