

2020.7.05
今日紹介する作品は、1993年公開のアメリカ映画“ギルバート・グレイプ”(よもやまシネマ376・2018.1.29投稿)。主演はハリウッドを代表する男優、ジョニー・デップとレロナルド・ディカプリオである。当時はまだ新人と言ってもいいキャリアのふたり。観れば解るが、それぞれ初々しいく光り輝いています。
そして共演のヒロイン役がわたしの好きな個性派女優ジュリエット・ルイス。彼女もまた二人に負けない存在感を醸しだし、物語に深い印象を付け加えています。ディカプリオはこの作品でアカデミー賞助演男優賞にノミネートされ、当時はやくも期待の星として評価され見事にナイーブな演技を披露してくれました。
感想を綴る前にこの作品への見方が、年齢を重ねるとともに変わって来ている事を言っておきます。はじめて観た20代の頃は、単純に美談としてとらえ涙したのですが何度も観ているうちだんだんその印象は変わっていきました。歳をとったからなのか、2年半前に観たときは主人公の隠れた内面が見え始め新たな発見みたいなものを感じ、今日はそのあたりを綴ってみようと思います。合っているかは解りませんが・・・。
物語はアメリカ・アイオワ州の田舎町が舞台の家族愛を描いたヒューマンドラマ。主人公はデップ演じるギルバート。タイトルそのままに、彼を中心に進む「無償の愛」を浮かび上がらせ本当の幸福とは?を投げかけてくる。主人公には多くの現実がのしかかり、自由とか希望とかを選択する余裕すら無い。24歳という年齢の主人公だが、早くして父を亡くし(自殺)過食症で家から一歩も出ない母と、知的障害を持った弟アーニー、そして姉と妹を抱え家族の生活を支えるという大きな役割を抱えた日々を送っている。これだけ聞いても痛々しいくらいの境遇である。普通の人間なら、出来ることなら逃げ出したくなるに違いない。これは単なるお涙頂戴の泣かせるだけの物語ではありません。むしろそんな青年が偶然知り合った旅の少女ベッキーに出会い、街を離れたいという気持ちが芽生えるこころの旅を綴っています。運命と言っては申し訳ない過酷な生活の中で、生まれた逃避行の感情をだれが攻められましょう。人生は一度きり・・・。
物語はギルバートにスポットをあて、青年がひたすら我慢をし生きている姿を浮かび上がらせ、自己犠牲の美しさみたいな構成にはなっていて切ない・・・。映画の原題は「What Eating GILBERT GRAPE?」と言うらしく、「何食べちゃった(何で困っている)のギルバート・グレイプ」という意味らしい。ここにこの物語のコンセプト、即ち真実が隠されています。本当は彼にも自由があり、そして夢もある。聖人君子のような人生なんて望んではいないというのが本音。ここが一番作品が表現しているところで、それでも家族との絆に縛られもがき苦しむ青年の成長する過程を知ることが重要なカギである。ちょっとまた、熱くなりましたが実は私事で恐縮ですが、わたしの兄も知的障害者で小さい頃は偏見の目で見られ似たような経験があります。だれのせいでも無いことくらい解っていても、時にそのことを恨んだことも・・・。ギルバート同様、そんな風に考えてしまう自身が嫌で苦しんだこともあります。物語はそんな部分がとても繊細に描かれていて、わたしは胸を締め付けれれこころに響いた忘れられない1本となりました。そんなギルバートのこころに触れて観てくれると嬉しく思います。最後に劇中の印象深い台詞をひとつ。ベッキーに願い事を聞かれギルバートが言った言葉「僕は、いい人になりたい」が、彼の苦悩を表す物語の真実では無いでしょうか?
P.S. 映画は広い意味で介護の問題がテーマとなってる。そして切っても切れない絆が描かれれています。それでも「本当に大切なものとは何ですか?」と疑問も残す、そんな作品でした。デップ、ディカプリオの二人にはこころから拍手を贈ります。「素晴らしい作品をありがとう」と・・・。
※余談ですが、ジョニー・デップにはこう言う役をもっと演じてもらいたいと願っています。濃いキャラの役が多く、もちろんそれはそれとして大好きですが、素顔のデップをもっと沢山観てみたいというわたしの勝手な願いです。よろしくm(__)m。